うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

怒りの拳を悲しみの涙に変えて

以前は、よく「怒り」を感じていたのですが、ここしばらくは代わりに「悲しみ」を味わうことが多くなっています。

悲しみが強いと言葉を編むことができないのですが、今は少し気持ちの整理がついてきたので、この2つの感情についての思いをつづります。

 

ここで少しだけ心理学の話をすると、

私たちは、「怒り」を本来の感情を覆い隠すために感じることが少なくありません。

この場合、覆い隠された自然な感情は「困った」とか「悲しい」とか「寂しい」とかというネガティブだけど本来の自然な感情がほとんどです。

これらの感情を感じるとき、私たちは、自分の弱さやもろさに直面してしまいます。

でも、問題解決や危機脱出の役に立ちません。だから、弱さを伴う感情の代わりに爆発力を持つ「怒り」を感じるようにするのです。

 

さて、

私の半世紀を振り返れば、「怒り」が原動力になって生きてきました。

あらゆる出来事に「怒り」を感じていたと言っていいくらいです。

そして、

頭にくる! 戦って望ましい状況に変えてやる! って頑張ってきました。

抑圧する親に怒り、鈍感な学校の先生に怒り、いじめる友人に怒り、無関心な社会に怒り、対峙するものすべてに自己主張という形で反抗して、アグレッシブに生きてきました。

 

ところが、

齢50を過ぎてなんとなくいろんな事に区切りがつきだした数年前から、「悲しみ」を味わいだしたのです。

だからといって、

「自分のために「怒り」の代わりに「悲しみ」を味わおう!」なんてたいそうなものじゃなくて、押し寄せる悲しみにどうにもアグレッシブに抗えなくなったというのが真相です。

 

実のところ、

20年近く前から、TA・交流分析の学びによって私の本来自然な感情は「悲しみ」だというのは知っていて、この感情をしっかり味わうと憑き物が落ちたようにスッキリするというのも知っていたのですが、※ラケット感情理論です。

これまでは「悲しんでなんかいられない!」状況でもあったし、自分が弱くなる感じもして「悲しみ」に触れることをあまりしてきませんでした。

それは、弱い自分を除外して強がっていたとも言えるでしょう。

 

そして現在、

「悲しみ」を感じるのを抗えないことを不承不承認めたので、あえて「悲しみ」を感じるがままにしています。

するとなんと「悲しみ」の多いこと多いこと!

子どもの頃から現在に至るまで、小さな事から大きな事までこれまで怒りを感じていたあらゆることがたくさんたくさん「悲しみ」のオンパレードなんです!

親からは抑えつけられ、学校の先生からは配慮もされず、友人たちからはいじめられ、社会からは関心も持たれなかった人生は、悲しいことの連続でした。

さもありなんです。

 

おかげで現在、とてもセンシティブな状態です。

とても脆弱。

 

それでも、怒りまくって生きていた以前とは違い、胸の奥が爆発するような圧力は感ぜず、力の抜けた自然な感じで日々を暮らしています。

「悲しみ」って脱力するんですね。それでも問題なく暮らせています。

脱力したまま暮らす。強がらず弱いまま暮らす。

きっと、今まで望んでいて手に入らなかった暮らしなんだろうなと思います。

 

そして、

もうしばらく味わい尽くしたら、きっと活力が戻ってくるのだろうと思いながら、今日も悲しみを味わうのでした。