うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

世界を傍観している私

最近ふと、

「自分って傍観者だったなぁ」

と思ったので、今日はこの辺のことについてつづります。

 

私には自分の行動について不思議に思うことがいくつかあります。

その中の1つが、親のケンカの現場にいつもいたことです。しかも冷静な状態で。

 

私の親は、ほぼ毎日口ゲンカをしていて、それが早朝から深夜まで続くこともしばしばでした。そのため私は親のケンカを横目に生活せざるを得ず、私は親のケンカと同居していたようなものでした。

 

こんなふうに、親のケンカが私の生活の一部だったせいもあるのでしょうが、私は親がお互いを口汚く罵り合っている場に平然とすわって二人の言い分を半ば興味本位で聞いていたのでした。

止めることもせず、嫌がって泣きわめくこともせず、ましてや逃げ出すこともせず。そこにいて、じっと親たちを観察し、第三者的に双方の言い分に耳を傾けていました。

それはまるで、映画の言い争いの場面を観客として観ているかのようでした。

止めにはいるでもなく非難するでもなく結局何もしないのですから、

つまり私は、傍観していたのです。

 

さてこの傍観癖、これまでのいろいろな場面で顔を出していました。

例えば、

友達が家族や友人同士で遊びに行った話や、恋愛や人生進路で悩んだり、スポーツや芸能人に熱くなったりした場面などで、私は彼ら彼女らを傍観します。

それらはその人たちのことであって、自分とは関係のないことだと思っていたからです。

というのも、

そもそも海水浴とかのレジャーをしたり家族と楽しく遊んだり、進路に悩んだりするのはその人の世界の話(他人事)で、自分には縁のない別世界の話だと思っていたからです。

 

そしてそれはつまり、

自分はフツーの世界とは違うところにいる

と常に思ってたということです。

 

万事こうなので、

実社会でやっていくのに苦労するというか生きていて孤独を味わうのは当然です。

私はいつも、皆となんとなく距離を感じて生きてきました。

 

今改めて振り返ってみれば、当時の私はきっと

彼ら彼女らと一緒に楽しむ、悩む、解決するという感覚。つまり、

楽しい、苦しい、困り感などの相手の感情に共感することを知らなかったのでしょう。

だから、誰かのことについて心が動かなかったのです。

親から共感されなかったことが一因と思います。

 

現在、

幸いにも、よい人たちと出会えて共感される体験を重ねた私は、おかげさまで心が動くようになりました。

人を思いやれるようになりました。

そして、自分への思いやりも少しばかりできるようになってきました。