うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

親子二代寺院生活がトラウマになったこと

虐待の連鎖という軽々しく口にすべきでない言葉があります。
虐待した親は子どもの頃に虐待を受けていた傾向が高いことからこう呼ばれています。
※虐待した親の多くは子どもの頃に虐待を受けていた。

ところが、虐待していない親のうち、子どもの頃に虐待を受けていた人も多いのです。
※子どもの頃に虐待を受けていた人が親になっても虐待しない。

虐待の連鎖という言葉は、その人たちを、我が子をいつか虐待するかもしれないという恐怖に縛り付けます。
そして、その言葉の恐怖から、親になることをあきらめている子どもの頃に虐待を受けていた大人も少なくないでしょう。
だから、この言葉は軽々しく口にしてはならないのです。

 

ということを前提にしながらも、今回は我が家族の虐待の連鎖についてつづりたいと思います。

我が家族は、親子二代にわたって寺院が不幸の原因だったようです。
父がアルコールに溺れたのは、屈辱的な体験が繰り返された若い修行時代に「一人前になったら酒を思い切り呑んでやる!」と決意したのがきっかけの一つです。
父はこれを達成しました。

 

母が死ぬまで数年間病院通いしたきっかけは、寺院住居部分の売却手続きです。条件的には満足がいくものだったのですが、住居部分に残してきた寺院生活の名残が母のメンタルに悪影響を与えたようでした。片付けできずに20年放置してきたものにとうとう向き合わねばならないからです。※私もトラウマ反応が激しかったので手つかずでした。

そもそも母にとって寺院生活はメンタルによい影響は与えていなかったようです。寺院から離れしばらく悪くない状態だったのが、これの話を機に再発といってもいいような状態になってしまいました。
思い返せば、私たち子どもへの虐待となる母の過激な言動は、寺院生活のストレスから多く来たものでした。

 

私のメンタル不全の根源も両親二人と同様に寺院生活にあります。

 

人々に平安をもたらす社会資源である寺院を支える生活は、私たちにとってメンタル上の問題を引き起こすものでした。
それは、
父と母が寺院生活から受けた被害が子の私に及んだということ。
虐待の連鎖です。

 

とはいえ、
親も私も同じ犠牲者、被害者という共通項の発見は、親に対する私の気持ちによい影響を与えるかもしれません。
それは先の楽しみです。