20年ほど前、アダルトチルドレンの本を読みあさったときに、最初に心に響いたのが「親子逆転」でした。
本来は子どもの世話をするのが親の役目だけども、子どもが親の世話を焼く家庭がありそこでは親子の立場・役目が逆転していて、そのために子どもが子どもでいられず、それで後々まで問題を抱えることになる(アダルトチルドレン化)ということでした。
親子逆転家庭。
わが家はまさにこれでした。
私は「親にとって道具だった」とはこのブログでよく書いていますが、親にとって私は「自分たちの手助けをする役」そういう存在でした。
親を助けるのは子どもの役目というのは昔も今も変わらぬ価値観でしょう。
一人前の大人でも手助けがいることは少なくありません。
そうなので当時の私も疑問もなく親を助けていました。
でも、最近ひょっとしたらと思います。
親たちは私の手助けがないといろんなことをちゃんとできなかったのではと。
そしてそのことを私はうすうす気づいていて、子ども心にも世話の焼ける親だと思っていたのではと。
それはつまり、
親たちは、私の世話を焼けなかったということ。
きっと2人とも、子どもの世話の焼き方を知らなかったのだろうということ。
ではないかと。
実のところ、親から手間暇かけて育まれたような話を両親たちから聞いたことがありません。
片親はハイティーンで修行に出て、もう一方の片親も親と同居はしていたようですが(気持ちを)大事にされた気配はありません。
人間、自分がされたことは身につきますが、されてないことは身につきません。
世話を焼かれていない両親たちは、私の世話を焼く力はなかったでしょう。
とりわけ、子どもが将来自立して生きていくために役立つことを伝えるという時流に沿った育て方など。
私の親たちが知っていることと言えば、役立つ者だけ役立つ分だけ衣食住を与え、そうでないものは排除する(切って捨てる)という戦前戦中のキビシイ価値観のみ。
そのため、子どももきちんと育てられない親は排除される。そんな思いもあったかもしれません。ならば誰かに教えを請うなんて無理な話です。
今はもう、二人とも他界していますが、二人は死ぬまでこのキビシイ価値観で生きていました。
もう少し楽してよかったのに。人を信頼して、人を頼って。
親不孝な私が言うのもなんですが、今さらながらに思います。
さてこうして、虐待の連鎖よろしく親たちから世話されず、育ててもらえなかった私でしたが、運良く他人様から目をかけられ育てられました。おかげでなんとかいっちょ前に社会生活が送れています。
親には育てられなかったけど他人に育てられた。
そう実感している私なのでした。感謝とともに。