『人生後半そろそろ仏教にふれよう』(古舘伊知郎・佐々木閑 PHP新書)の読書感想文です。
本書は、一貫して「釈迦の仏教をしゃべりたいんだ!」という我の強い古館氏を佐々木氏が諭しながら導いている印象でした。
「無我」の境地を目指すのが「釈迦の仏教」のはずなのに心酔している古館氏が我に囚われているのが興味深かったです。
我(執着)を捨てるのはとても難しいことですね。
さて、本書からは「釈迦の仏教こそが正しい教えだ」というニュアンスを受け取ったのですが、それは釈迦の教えではない「大乗仏教」の価値に疑義を投げるものです。
端的に言うと「大乗に価値はないのか?」の問いは、ちょうど父と母たちが信仰していた大乗仏教(法華経)の教えを再点検していた私にとってはとてもありがたいことでした。
「釈迦の仏教」と対比することで「大乗仏教(法華経)の教え」がどんなものなのかが浮き彫りになる機会を与えてくれたからです。
そこで今回は、その思考過程をつづりたいと思います。
まず「釈迦の仏教」とはどんな教えかというと、「釈迦の仏教」は”人生は苦しみだ”という現実状況からいかに脱するかが説かれているのだそうです。
そのために、物事のあるがままを見聞きし、事実を客観的に受け止めて心を整えて生きていくように努めるようです。
思うままにならない現実から逃げずに、つらいけど引き受けて暮らしていく。そのための知恵がたくさん説かれているのだそうです。
一方、大乗仏教はというと、
私が知っているのは法華経のみなので法華経についてのみ語りますが、
全体的に「喜悦(きえつ)」の記述がとても多くなっています。お経全体にわたってものすごくたくさんの仏様や神様たちや関係者一同がこぞって喜びまくっています。
そして、仏様たちや神様たちなどの偉大な力を持つ存在が、私たち市民一人一人を護ってくれていることがこれでもかこれでもかと記されています。
なぜなら私たちはお釈迦様の子どもだからということです。
なんて、都合のよい! なんて楽なことでしょう!
まるで、お気楽にインスタントに成仏できる教えとしての大乗仏教を絵に描いたような内容です。
でも、大乗仏教・法華経はほんとうにこんな浅はかな教えだったのでしょうか?
これについては、なぜこんな風な教えが説かれたのか?
という視点から再考してみました。
次回に続く