夏苅氏のシリーズ2作目の本『もうひとつの「心病む母が遺してくれたもの」 家族の再生の物語』(日本評論社)を読んでの感想です。
私は長年当事者活動をやってきて、自分の健康的でない人生を不特定多数の人たちに語ってきました。それは自分にしかできないことだという自負心とともに、語ることが自分の癒やしになってきたからです。
でも、改めて振り返ると、言えることだけ言ってきた。本当に言いたいことは胸の奥にしっかりとしまっていたなぁ。と思うのです。
つまり、語れることだけ語ってきた。語るべきでないと判断したことは語って来なかったということです。
語れること。私にとっては「ひきこもり体験」はその最たるものでした。
なぜなら、このブログで開陳している親子関係や宗教や虐待という私の暗く陰鬱でまったく希望の光が見いだせない体験に比べれば、ひきこもり状態はとても表層的でまったく核心には触れない体験、つまり私にとって語れる体験だったのです。
私の核心(の心の痛み)は誰も知らない。
それでいい。それでいい。それでも十分に社会に貢献しているのだから。
こう思ってやっていました。
さて、夏苅氏は2作目で闇を語ったとあります。
氏も社会的な影響を気にして核心を語ってこなかったとされています。
私もそうです。やはり私の闇というか家族の闇を語ることは社会的に大きなリスクになります。「親をおとしめる人」のレッテルと貼られそうだもの。
でも、これからは語っていこうと思います。表層的なことだけでなく暗い核心のことも。昔なら墓場まで持っていくような内容でも。
なぜなら、親を知る世代の多くが鬼籍に入り、私たち家族の体験が過去のこととなった今なら、寺院2世当事者や虐待被害当事者の声はむしろ社会の役にたつ割合が高いだろうとの思いがあるからです。
そしてなにより自分の心のままに。言いたいことはいいたいのです。
氏は、手に入れたかった人生でなくとも「自分に手をかけてあげることで少しでも心が落ち着くならば、それに代わる人生に納得ができる」とされています。
私も自分に手をかけてあげることの一つとして自分の闇を語っていきたいと思いました。
自分が自由に楽になるために。自分の人生に納得するために。