『人生後半そろそろ仏教にふれよう』(古舘伊知郎・佐々木閑 PHP新書)の読書感想文の続きです。
まるで、お気楽にインスタントに成仏できる教えとしての大乗仏教を絵に描いたような内容なので、ほんとうにこんな浅はかな教えだったのか?、なぜこんな風な教えが説かれたのか? という視点から再考してみたのでした。
教えは「誰に説かれたのか?」「どんな人たち向けに説かれたのか?」は重要な要素です。
相手の苦しみに合致した教えでなければその人を救うことにならないからです。
相手の苦しみ、今風に言うならニーズを知ることは大事です。
そこで、
多くの神仏たち喜悦がこぞって喜びまくる情景こそが必要な人は、どんな(心理)状態だったのかとイメージしてみました。
すると、
孤立していて、心と体の痛みを抱えていて、希望がくじかれて、それでも日々を暮らしていかねばならない人たちのイメージが浮かびました。
つまり”人生は苦だ”を地で行っている人たちです。
お釈迦様が生きておられた当時ならば出家することで窮地から脱することもできたでしょうに、それすらもかなわない人たち。
例えば、住職やその妻からひどい仕打ちを受けた子どもとか。
では、
その人たちに一番必要なもの(ニーズ)は何か? どんな関わりを求めているか?
と考えると、その人たちが苦しみから脱するには、偉大なる存在たちのねぎらいや慈しみや優しさ、力強い援助、守護がまず必要に思えます。
すでにもう極限まで心と体を傷めている人たちには、
大丈夫、私たちが護っているから安心しなさい。
という暖かな優しい思いやりが一番必要に思えます。
たといそれが一時の気休めであったとしても、それで少しばかり心が安らげば、逃れられない苦しみの多い生活に耐えられるというものです。
法華経を説いた人たちは、それを目指していたのではないかと思います。
苦しみから意識をそらし夢幻の世界で生きていくことを勧めるためではなく、現実の苦しみの中で生きるには大いなる存在(サムシング・グレート)の後ろ盾こそが必要だとの現実認識からです。
さて、
法華経に限らず大乗仏教では神仏の”慈悲”が強調されています。
大乗を説いた人たちには、
慈悲の光に護られているからこそ、苦しみばかりの世の中でもやっていける。
そういう思いがあったのだろうと思います。
こう考えると”人生は苦しみだ”という「釈迦の仏教」をベースにした「時代に適した仏教」が大乗仏教のように思えてくるのでした。
まさに、北斗宗家の拳が通用しなくなって時代の切望を受け創始された北斗神拳のように。ほあたぁ~っ!
そして、今は亡き父と母が神仏のもとで慈悲につつまれ平穏を感じていればいいがと願うのでした。
この項終わり。