うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

親からリソースを喰われてたなと思う

私が初めてパソコンに触れたのは中学1年の頃で、機種はNECのPC6001でした。

BASIC言語を使っていろいろ遊んでました。

高校生になると、学校で富士通のパソコンFMVや、マークシート式でプログラムを入力する大型電算機でFORTRAN言語を使って電算処理していました。

今は、自宅でWindows11のパソコンを使っています。

 

そんなこんなで長年パソコンとなじんでいるので、喩えにパソコン用語を使うことがあります。

 

例えば、

以前ひきこもっていた頃、親に自分のことを理解してほしいことの喩えとしては「フォルダーのように」です。

その心はといえば、

共感や同意とまでは言わないので、せめて私の考えをそのまま記憶してほしい。

です。

これは、

私の考えを必ずゆがめて否定的に記憶する親への最低限の願いでした。

「フォルダーのように」は、

私の思いや気持ちを解釈も加工もせず、そして否定も肯定もせずにそのまま親の頭の中の「息子フォルダー」にただ入れておいてほしい。

理解も納得も共感もできないが「お前はそう考えるんだね」と思ってくれることが一番嬉しいんだ。

という思いからたどり着いた喩えだったのです。

※結局、願いは叶えられませんでしたが・・・。

 

そして最近よく思うのは「リソース喰われてたな!」です。

パソコンではワードやエクセルなどのアプリを利用するとき、メモリを消費します。

もしあるアプリが搭載されているメモリ(リソース)の容量に見合わない消費量だと、他のアプリの活動が制限されます。ときにパソコンそのものが動きづらくもなります。

リソースが喰われているからです。

 

まさに、私の前半生がこれでした。

私は親からリソース喰われまくっていたのです。

 

私のリソースとは、私が持つ人間性であり、対人技術であり、知識であり、感情であり、体力であり、学力であり、人間関係であり、忍耐力であったりするところの、私が活用できる資源です。

 

私は、それら私のリソースを、自分のためでなく親のために消費し続けていたのでした。

例えば、親の願い事をかなえるために、あるいは私に対する親の常軌を逸した反応を予測し対処するために。

 

だから、なんだかいつも制限いっぱいで重苦しい感じがしていたのです。

不要なアプリがいっぱいあって、肝心のパソコン本体の動作が重くなっているのと同じです。

 

今、私のリソースを親から喰われなくなって、なんと余裕のある生活が送れること!

私のリソースを親に割かなくなって、いろんなことがサクサクできること!

これまでにない気軽さで生活できることに、感動に浸ることもしばしばです。

 

このことは、

親は子どもの私のリソースを喰いまくるほどに自分のリソースだけで生きていくのは難しかったということです。

それなので憐憫はしますが、事実としてやはり私のリソースを喰っていたことは間違いありません。

だからできれば、たった一人の子どもからではなくたくさんの大人たちからリソースを分けてもらってほしかったと思います。