うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

ダイバダッタとガンディーと自分

今日は、親と子の関わりについて、お釈迦様とダイバダッタとの関係から、いろいろ思うところをつづります。

 

仏教経典で超有名な極悪人にダイバダッタがいます。

ダイバダッタがどんな悪さをしたかというと、酒に酔わせた象をお釈迦様にけしかけたり、岩を落としてお釈迦様の足を傷つけたりしたとされています。

 

さてダイバダッタは、そんなことをした人なので、ぜったい成仏しないで地獄へ落ちると皆から思われていたのですが、お釈迦様は自分が成仏できたのは過去にダイバダッタの教えがあったからだとして、ダイバダッタと自分との関わりについて説き成仏の保証を行います。

 

なかなか複雑な関係なのですが、教訓としては、苦難を与える者こそ実は成仏の助けとなんだということみたいです。

 

この説に従って私と親との関係を見直してみました。

宗教指導者でありかつ私に害を加えたという事実から単純に考えると、親がダイバダッタで私が(恐れ多くも!)お釈迦様の立場となります。

すると、親がひどいことをし続けたのは私が成仏するためだったとなります。

これは、私が半世紀従ってきた考えです。そして、宗教が虐待を正当化する根拠にもなります。

これではよくありません。お釈迦様が虐待を容認していることになってしまいます。

 

どうしようかと悩んだところ、試みに、私がダイバダッタだら? とこれまた単純機械的に逆設定してみました。

すると、私が親を困らせたのは親の成仏のためだったとなりました。

なんと、私のかずかずの親不孝は親を鍛え上げるためだったのです。

これは、いささか心が躍る面白い仮説です。

 

思い起こせば、私は思春期の頃からずっと親に対立し続けていました。

そのやり方は、非行に走ったり暴力振るったりではなく、ひたすら我が道を行く感じです。

 

(恐れ多くも!)例えるなら、非暴力、非協力で戦ったガンディーの姿勢でしょうか。

暴力もせず、従うこともせず、ひたすら糸を紡ぐ。

 

そんな感じで、強情で自我の強い私は親としてはとっても扱いづらかったろうと思います。いい修行になったんじゃないでしょうか。

 

そうして今、多少なりとも親の成仏の役に立っていれば嬉しいなと思う私は、反抗期を過ぎて少しばかり大人になったのかもしれません。