うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

日本は戦争を天災だと思っているのかもしれない

毎年この時期は、戦争について触れる機会が多くなりますが、今日は日本の平和運動について、思うところをつづります。

 

いわゆる平和運動をする人たちのニュースなどを見ると、原爆被害や空襲をはじめ、戦争被害そのものを天災のように語る印象を受けます。

欧米のように加害者を名指しして市民の頭上に爆弾を落とした罪を問う姿はまず見かけません。

一貫して、戦争被害者の立場から、加害者を責めたり賠償を求めたりせずに、戦争という根源悪の撲滅を目指して、平和を希求している姿に見えます。

そしてそれは、

恩讐を超えた加害者の罪への赦しであり、平和な未来を創造する高尚な姿勢と感嘆しています。

罪の償いよりも、今後罪を起こさないことの方を大事にする、卑近な物言いをすれば「次から気をつけてね」のこの姿勢は、私自身なじみのあるとても日本的な考え方だと思います。

 

ところが、この罪に寛容な姿勢・罪の再発予防重視は、加害者像をぼやかし加害の罪を薄めてしまう面もあるので、その点は気がかりです。

というのも、日本に爆弾を落としたのはあのアメリカだということを、アジアを侵略したのは日本だということを忘れている人は少なくないように思えるからです。

加害行為の、反省悔悟、改悛がなければ、また同じことが繰り返されます。それでは、いつまでたっても平和は訪れません。予防にもなりません。

核の脅しが世界中に蔓延している現状が証明しています。

 

このようなことなので、加害者※にあっては、平和運動の寛容さに甘んじることなく、しっかり平和のために力を尽くしてほしいと思います。

※ほとんどの国家がかつてどこかの時点で加害者であったと思っています。

 

そしてここでいささか飛躍した考えを述べるならば、

人が犯した罪を天災としてしまうことや人の罪に寛容な姿勢・罪の再発予防重視が、ハラスメント、DV、虐待、いじめ、への対応が遅々として進まない、あるいはその場しのぎであることに影響を与えているようにも思えます。

イジメや暴力は天災のようなものでどこででも起きるのだから、起きてしまったことはしょうがないのだから、加害の罪を問うよりも予防に力を入れよう。

こんな感じです。

すべて天災じゃなくて人災なのに。