NHKの番組「こころの時代」の、シリーズ「問われる宗教と”カルト”」の視聴後の思いをつづりっています。
今回は、「嘘」の続きで「方便」についてです。
川島堅二氏は、宗教の持つ負の面は、経典そのものにある程度のルーツがあるとして、罪という言葉と借金という言葉が経典の言語では同義なので、罪の償いは借金と同じようにお金でできると解釈されてしまう危険性を指摘したあと、
経典自体が、宗教の負の面の根拠とされてしまう例として法華経の一節を挙げます。
法華経の中にそういう教えがあるんですよね。大きな館にたくさんの人が住んでいて、ところがもう相当古びた館で、もういつ崩れるかわからないどころか、もう火の手が上がって、実は、上がってもうまもなく館が。ところが、そこに住み着いている人たちは居心地がいいものだから、もう危ないよ、危ないよと言っても全然動こうとしないと。そこで、その館から引き出すために、その人たちが関心を持つような何か珍しいおもちゃとかあげるから、さあ出ておいでと言って館から出すみたいな。そういう人を救うときの例えが。ですから、本当のこと言っても通じない場合には、そういうことでっていうのがあるっていうことを考えると、根が深いって言いますかね。
これは、「三車火宅のたとえ」として有名な一節です。
このたとえは、お釈迦様が立場の異なる3人に対してそれぞれ異なる教えを説いたのは、一つの成仏の道に導くための手段(方便)だったことを説き明かすものです。
法華経には、ほかにも6つほど有名なたとえ話がありますが、事ほどさように「方便」を使って人を導いた話が法華経にはたくさん記されています。
これを根拠にして、法華経をよりどころとする宗教・宗派では「方便」が着目されます。
ところが、ここで問題が起きるのです。
お釈迦様であれば「方便」と「嘘」はしっかり弁別されるのでしょうが、凡人である私たちではどうにも使い分けられないのです。
宗教2世問題の多くは、方便が実は方便ではなかった問題だと思われます。
お前のためだからと言って、親が子どもをだまして宗教に縛り付ける問題です。
こんなことから、
きっと、「方便」ってお釈迦様だからできるウルトラ級のスーパー高等技術だと思うようになりました。
「方便」は凡人には使いこなせないのです。
だからやっぱり私たちは、
嘘はつかない。
この極めてオーソドックスな俗世間の取り決めに従うのが最善だと思います。
そして、
相手の成仏のためになるからと言って、嘘をつかない。
ここは世俗法に従う。
宗教者にはそういう自主規制が必要だと思っています。