私の親は、一般常識が通用しない人たちでした。
自分が世界の中心だったからでしょう。
そんな親は、常軌を逸した指図を繰り返すのでした。
例えば、
私の工作課題か何かで金属の棒を数センチ切る必要があったとき、私の課題を横取りした親は、近くの自転車屋さんにペンチがあるから切ってきてもらえと私に指図しました。
親の貴重なアドバイスに従って子どもの足で歩いて10分ほどの自転車屋さんに行ってこれこれこうだと用件を述べて、切ってもらいました。店主さんはお金も取らず快く応じてくれました。
家に帰ると、どうにも寸法が合わず、親は2度3度とそのたびに切ってくるように指図しました。
次第に嫌気が差すしてきながらも指図に従う私でしたが、繰り返されるわけの分からない子どもの要望にさすがに店主もあきれて「あんた、どこの子ね?」といぶかりだしました。
こんなことを繰り返していてはらちがあかないと察した私は、親の指図を断りました。きょとんとした親は、ならそれでいい。お前のことだ。と憮然として引き下がりました。大事にならずにほっとしたのを覚えています。
大人になった今なら分かります。自転車屋さんに自転車以外の用事を頼むのは筋違いだと。
後になって、親はやっとそれに気づいたようでした。後日謝っていたと言っていました。でも事前には分からなかったようです。
別の例です。
小学生の時に親の意向で英会話教室に少し通っていたのですが、あるとき宗教家が何百人も集まる大会で外国の偉い宗教者が来るので、その通訳をやれとの指図がきました。自転車屋さんのときと違って少し大人になっていたので、私は速攻辞退しました。さすがに常識外れです。
片親は、そんな私をわがままだとか、自信がないとかと言ってなじりました。
いえいえ、ただ私が常識的なだけなんです。
ことほどさように、親は非常識だったのですが、
ここで見逃してならないことは、私が「親の道具」として使われたことです。
親の権威を笠に着て、子どもを思い通りに使い、それが叶わないと子どもをなじり、ときに罰する。
それが私の親の基本姿勢でした。
虐待の英語表記はabuseで、これはab-use=濫用なのだだそうです。
親の権威の濫用。
私の親は濫用者でした。