うちだのつづり

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親の所有物だった私が「所有」について考える その1

私は私の親たちから所有物としてずっと扱われてきました。なにをするにも親たちの許可が必要で、親たちの都合を優先せねばならず、親たちの要望を答える道具としてのみ生きてきました。それは、所有物は自分の思いのままに取り扱っていいと親たちが思っていたからです。

加えて、親たちには私が所有するものは自分たちのものという認識もありました。そのため私の大事なものでも勝手に処分するし、逆に私が望まないものでも押しつけてくるし、手紙は開封されるしで、私にはまったくプライバシーはありませんでした。

さて、そんな私の親たちは伝統仏教僧侶とその妻でした。
仏教では苦しみの根源は所有することに執着していることとされています。
だから仏教徒であれば、所有に執着しないように心がけて生活するのが筋なのですが、親たちは真逆の暮らしぶりでした。
こんなことから、「所有」についてはとても関心が高かった私なのですが、今回鷲田清一の『所有論』を読み大きく心が動いたので、「所有」にまつわることについてもろもろつづりたいと思います。

 

500ページを優に超える本書の本の構成は、ほとんどが有名な西欧哲学者たちの考える所有論で占められていて、最後の最後にやっと著者の考えが披露されます。
とにかく見知らぬ知見が山ほど出てくるので読破するのはとても難儀しましたが、その結果一つはっきりしたことがあります。それは、西欧の人たちは古来所有することにとても執着しているということです。
そしてそのことは、大きく2つの問題を引き起こすようように思えました。

一つは、所有することそのものが生み出す問題。もう一つは、所有者が所有物を自分の思うがままに扱える権利があると考える問題です。

 

一つ目の、所有することそのものが生み出す問題については、現在、トランプやイスラエル、ロシアの言動が戦争という形で目立っていますが、西欧諸国や西欧の考え方を取り入れた世界中の国々やその国の人々同士が、所有を巡って争う姿を見ると、所有に執着することがいかに悲劇をもたらすかということが分かります。
富や利権やそれを生み出す領土などを所有しているばかり争いが絶えない感じです。

 

二つ目の、所有者が所有物を自分の思うがままに扱える権利があると考える問題については、子ども虐待や、DV、パワハラなどパワーと支配が関係する問題は、すべてこの考え、感覚から引き起こされている感じがします。
例えば、私の子どもだから、俺の扶養家族だから、私の部下だから、うちの下請け会社だから、みたいな感じで相手を取り扱うから、あるいは取り扱おうとするからです。
冒頭の、まさに我が家です。この誤った権利意識は不幸しか生み出しません。

 

こういうことなので、なにかを所有するには心得というか「たしなみ」が必要だなと思いました。
所有の概念は毒性が強いので、なんらかのしばりをかけるのです。
そしてそのしばりとは、「一時的」と「預かる」です。

※この記事続きます。