以前、社会的養護の仕事に少しだけ関わっていました。そのときの思いを少しだけつづります。
社会的養護とは、保護者がいない子どもや、保護者のもとに置けない子どもを、保護者の代わりに児童福祉施設や里親などが養護することです。
社会的養護では、子どもを中心にした子育てを行います。
例えば、
子どもが声をかけてきたら、必ず今やっている作業を中断して、子どもと向き合って応答するとか。
子どもが希望する習い事は原則全部かなえるとか。
必ず子どもが理解できるように説明をするとか。
子どもに影響があることは必ず子どもに話をするとか。
です。
これらの話題に触れるたび、私の心はひどい痛みに襲われたのでした。
私がしてもらえなかったことのオンパレードだったからです。
情けなくて泣きそうな気持ちを抑えながら仕事していました。
社会的養護の子育ての姿勢は、一言でいうと子どもを人として尊重するということなのですが、
とりわけ、自分のルーツを知る権利というのがとても重視されていました。
施設の職員や里親は、ものすごく心を砕いて慎重に丁寧に子どもに真実を伝えています。
さて、
私は、自分の出自を詳しく知りません。
両親のルーツもしりません。
私の名前の由来についても何度も尋ねたのですが、説明はありませんでした。
ちなみに、片親は私の名前を嫌っていました。
こんな風なので、
私は、どのような系列の中に自分がいるのかが分からないまま今に至っています。
※私が血のつながりを知らないことは先述しました。
自分がどこから来ているのか分からないと、どこへ向かっていけばいいのかもあやふやになるようです。きっと人生の基盤がしっかりできていないからでしょう。
だから私はいつも、宙ぶらりんな感覚です。
社会的養護では、擁護される子どもたちがこうならないようにルーツがとても大事にされているのです。
宙ぶらりんな私が子どもたちが宙ぶらりんにならないように仕事していたのです。
なかなか辛いものがありました。
社会的養護を受ける子どもは、一般的にはいわゆる恵まれない子として認識されますが、保護もされずルーツも知らない私もなかなか恵まれていないぞと、仕事するたびに痛感したものでした。