NHKの番組「こころの時代」の、シリーズ「問われる宗教と”カルト”」の視聴後の思いをつづっています。
今回は、宗教と罪についてです。
おおよその宗教では、
罪には、原罪や悪業の因縁や罪障などと呼ばれる生まれついての罪と、生きている上で犯す罪があって、前者は今世の苦しみ、後者は未来世の苦しみの原因とされています。
そして、
この罪が起こす苦しみの対処法もおおよそ決まっています。
それは、だいたい次のようなロジックにもとづいています。
自業自得という言葉があるように、前世と今世で自分が重ねた罪ゆえに、今苦しみを味わっていて、加えて来世にも苦しみが待っているかもしれない。
だから、
苦しみを除去するには、それらの罪を、はらい、あがない、つぐなう必要がある。
そのために、
祈ったり、お祓いしてもらったり、宗教儀礼を行ったり、捧げ物としてお金や物品を布施・贈与したりする。
いわゆる罪滅ぼしを行う。
その結果、
罪はなくなり、結果としての苦しみも生じなくなる。
これで今世も来世も安心だ。
この罪滅ぼしのロジックは、ほとんどの宗教に共通していて、だから一般世間にもよく知られています。
でも、このロジックは問題があります。
このロジックだと、
今、病気やけが、戦争、虐待やDV、いじめ、困窮、犯罪被害、災害、災難という苦難に遭っている人は、自分が犯した罪が原因なのだから、その罪を滅ぼすために、今の苦難を甘んじて受けねばならないとなります。
もし苦境から逃げたら罪滅ぼしの機会を逃してしまうからです。
これはもう、教えの暴走と言ってもいい。
実のところ、宗教には、命より教えを大事にする傾向があります。
自己犠牲こそ素晴らしい! という思想が底流にあるからでしょう。
でも、
命や健康が保てない宗教に何の意味があるでしょう?
そんなことから、
宗教が暴走してカルト化しないようにブレーキが必要に思えます。
そこまで、辛抱しなくてもいいよ!
そういう解釈はしなくていいよ。
と暴走を止めるストッパーです。
それには、人権意識が効果があるように思えます。
健康で、困窮しないで、自由意志が保てて、などなどの基本的人権意識です。
宗教の暴走を世俗の感覚が抑える。
昔日のCMのフレーズの「おせちもいいけど、カレーもね!」にならえば「教えもいいけど人権もね」となるでしょうか。
宗教を健全にやるには、やはり、世俗法とのバランスが重要に思うのでした。