宗教2世の多くは、結婚相手や信仰や職業が決められているのだそうです。
それは、
本来、子ども(というか人)は無限の可能性を持っているのに、宗教のために将来が狭められているということです。
同様に、ヤングケアラーは、ケアラーとしての役目から、将来が狭められています。
選択肢の多さは希望の多さでもあるので、両者は将来への希望も狭まっていることになります。
こういう具合なので、
両者は制限付きの希望を抱いて大きくなります。
私がそうでした。
さて、
以前、家族を重荷と感じながら大人になっても、家族を持つことに積極的な人とそうでない人がいて、その違いは家族の世話をする重責のあるなしだろうとつづりました。
これについて、将来の希望という視点で再度考えれば、両者の違いは希望のあるなしとも言えそうです。
将来の希望。
私は、将来について希望を思い描いたことはありません。
5年後、10年後、いえ、1年後を考えようとするだけで、頭が真っ白になって思考が止まってしまうからです。
さて、
希望について考えるとき、私にはいつも思い出す出来事があります。
高校の製図の授業で、理想の家の間取りを描けという課題で、直線一本描けなかったことです。
一応描こうと努力はしたのですが、途中で鉛筆が止まってしまい、描いては消し描いては消しを繰り返したあげく、見事にまっさらな図面というか白紙を提出したのを覚えています。
希望の家は制限に引っかかり、きっと思慮の他だったのでしょう。
今更ながら私の人生半世紀を振り返れば、確かにいつも制限をかけて生きていました。
自由にならないように、飛び立たないように。
うかつに飛べば、足をつかまえられて墜落するのがおちだから。
そんな思いでいました。
必要以上に将来に希望を持つな!
と自分に言い聞かせていたのだと思います。
将来の希望に制限をかける。
同じような思いでいる人は多くいると思います。
自分と似たような境遇の人たちのために、つまり自分のまだ見ぬ仲間のために自分になにかできることはないか?
ようやくいろいろなことに片が付き、
昔未来であった時点に今いる私は、
かつての青春を取り戻すかのごとく、今更ながら希望を描くという輝かしくも難題に挑戦している中年男なのでありました。