うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

宗教者によるひどい仕打ちは魂の居場所も奪う

昨今、宗教者による加害行為が話題になることが多くなってきました。

とりわけ、宗教者による子どもへの加害は、残念ながら洋の東西、時代の古今を問わず行われてきたようです。

 

宗教2世の私も同じような経験をしているので予想がつくのですが、宗教者による加害行為は、被害者の心や体にとんでもない悪影響を与え、それは魂にも及びます。

 

実は、魂=スピリチュアルなことに問題を抱えてしまうことこそ宗教被害の最悪なのです。

 

古来、人はままならない世の中の慰めを宗教・信仰に求めるのですが、

宗教被害者は、この道が断たれます。

 

宗教によって傷つけられた人は、宗教に救いを求められなくなるからです。

 

それは、

神様や仏様に救いを求めづらくなるということで、

 

そうなると、

何があっても神様に見守られている、仏様から見捨てられていないっていう感覚、つまり神様や仏様とつながっている感覚を持てなくなります。

それは、希望がないってことを意味します。

 

『夜と霧』で有名な、ヴィクトール・フランクルが経験したように、人は希望さえあれば想像を絶する過酷な体験ですら耐えられるようなのですが、神様や仏様とのつながりをなくしてしまうとそれが叶わなくなってしまいます。

 

他にも、

お正月やお盆、お彼岸、結婚式、お葬式、年中行事などで、神様や仏様、ご先祖様というスピリチュアルな存在とのつながりを意識する人たち(つまり一般的な人たち)との溝を作ります。

 

そのため、

宗教被害者は、宗教・信仰の世界にも、スピリチュアルな風習を持つ市井の人々との間にも共感の機会を持ちづらくなってしまいます。

それは、心の奥底での人々とのつながりが持てないってことです。

 

このようなことから、

宗教被害者は、スピリチュアル世界でも実世界でも、つまりあらゆる世界で一人取り残されてしまうことになるのです。

 

それはつまり、魂が安心できる居場所がどこにもないってことです。

 

では、

このような過酷な境遇にある宗教被害者はどんなケアが必要でしょう?

 

宗教が関係しない被害は、身体ケアと心理ケアを中心に行われ、とりわけ他者との愛着形成に重点が置かれますが、宗教被害の場合はこれに加えて大いなるものとの愛着形成が必要になるようです。

 

それは、

なにかしら大きな慈愛に満ちた存在とつながってる感覚を持つようになることです。

 

それは、

神様や仏様とつながっている感覚かもしれません。

ひょっとしたらお日様の光に優しく包まれる感覚を手にすることかもしれません。

 

それは、

日々、世界から慈しまれ、目をかけられ、守られている。そんな感覚です。