立ち読み程度しか読んでないので、今回は内容には触れずにインスパイアされたことを記します。
「置かれた(場)所で咲きなさい」
表題でもあるこの言葉は、著者の迷いを払拭した人生の指針となっています。
聖書の「Bloom where God has planted you.」からきていて、
「神があなたを植えた場所で咲きなさい」という意味とのことです。
神の意志を受けて生きる。
宗教人ならなじみのある感覚です。
かくいう宗教2世の私も、同じ感覚を持っています。
今この状況は、私にどんな経験をさせようとするためか?
実際私は、子どものころからそう考えて、置かれたところでそれなりの花を咲かせることを繰り返して半世紀ほど生きてきました。
親からひどい仕打ちに遭うのも、暴言暴力の嵐の家庭環境も、学校でのいじめも、進学先の指定も、社会人になっての仕事の依頼も、すべて、経験をさせようとする大いなる意図を受け入れて(つまり自分の欲求は横に置いて)、そのなかで精一杯自分の花を咲かせて辛抱強くやってきました。
おかげで、まちがいなく豊かな経験を重ね、たくさんの人々と出会い、充実した半生でしたが、残念ながら、なんだか寂しい気持ちもあります。
きっとそれは、自分の意志で生きてきた半生ではなかったからでしょう。
ずっと、その時々の置かれた場所で自分以外の何者かの意図をかなえるために生きてきたように思えるからです。
心理学ではナラーティブというのですが、自分の人生を語るとき、一本筋が通るとメンタル的によいのですが、私はそれに苦労しています。
いざ語ろうとすると、私の人生はぶつ切りの塊の集合になってしまいます。たとえるなら、セール品の袋の中に入ってる骨付き鶏肉です。
自分の人生! という一本の筋が見えてこないからなんです。
置かれたところで咲きなさいに従って生きてきた子どもはこんな風になるリスクがあります。
こんなことから、置かれたところで咲きなさいは、子どもに対してのメッセージではないと思うのです。
そもそも著者が言われたときは、社会人である著者の栄転の機会でした。
きっと、過酷な状況にいる人、とりわけ子どもに対しては、この言葉は言わないのでしょう。
代わりに、もっと神の庇護を感じられるところを勧める言葉を言うのでしょう。
子どもが置かれたところで安心してのびのび花咲けるように。