うちだのつづり

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個人が社会に溶け込む世界のSF小説『ハーモニー』を読んで

今回は、伊藤計劃の2作目『ハーモニー』を読んだ感想です。

世界は前作『虐殺器官』でスゴいことになった後、その反省にもとづき争いのないユートピアを構築したようです。
そこでは人の身体や精神の「健康」が一番価値が置かれ社会全体が個人の健康にものすごく力を注いで、全員が健康長寿を謳歌しています。
それを達成している個人のマインドセットは「自分の身体は公共財」とか「自分は社会のリソースだ」で、少し物騒な匂いを含んでいるのですが、これがキーとなって物語は進んでいき、最終的にまったく争いのない世界を実現するための禁断の妙手が打たれます。
そうして世界は争いという不調和から脱し、調和のとれたハーモニーな世界を実現して物語は終わります。

作者は本書を病床で書き上げたということなので、自分の身体・存在が自分のものというよりも公共財としての意識が強かったのかもしれません。

また、自分の意思が物語のもう一つのキーワードなのですが、人は病を得ると決断に次ぐ決断の連続でとても疲弊します。現代の医療は、自己責任と自由意志をものすごく尊重するので、自分の希望と家族の期待をまさに会議のようにいろいろ考えて自分の「健康」について自己責任で意思決定していかねばなりません。

この作業はものすごく心の負担を与えます。その苦悶が全編からにじみ出ているように感じました。

この点、とても身につまされます。

 

さて、私の親たちは私の身体を公共財としていました。
つまり、私の身体(あるいは存在)を、寺のもの、寺を所有している自分たち親のものとしていたということです。
このことは檀信徒も同様でした。寺の息子としての私の身体は、檀信徒みんなの公共財でした。そういう意味でみんなから大事にされてきました。

大人たちがみんなそうなので、だから私も身体を粗末にしてはいけませんでした。自分の身体はみんなのものつまり公共財だったからです。
まだ年端もいかぬ子どもの一身に大人たちの期待を抱え背負わっていた私。
重すぎる重圧、息苦しい空気の中で、私が自分の身体を嫌悪するようになったのは不思議ではありません。
私の人生を暗く閉ざし重く苦しいものにする元凶が他ならぬ私自身の身体だったからです。

 

そのせいか、私は身体のケアに熱心でありませんでした。一例を挙げれば虫歯になってもそのうち総入れ歯すればいいやと思ってたぐらいで、ケアは万事投げやりでした。
そして、積極的に身体を痛めつけることが好きでした。頑健な身体でないと重圧に耐えられないし、そもそも親たちの使用に耐えられる身体にならねばとの思いからでした。
私は身体を鍛えいじめ抜きました。痛みを感じるたびに強くなるような気がして、痛いことばかりして、そのうち痛みがないのが物足りない人生を送っていました。根性焼きもやりました。当時は痛みに耐えられる体を必死に手に入れようとしていました。

 

私にとって、私の身体はくびきだったのです。
私は、身体があるから大人たちの思惑(期待)に縛り付けられていると思ってました。
そのためか、消えたいとよく思ってました。※透明人間の方です。
(身体を)見られることが、認知されることがほとほと嫌だったんです。
だから写真に撮られることが心底嫌でした。※今もです。
なんて承認欲求のないこと!

 

こんな半生を送ってきた私なので、社会のリソースにはなりたくない! って思いがとても強いのを感じています。人からいいように扱われるのは大っ嫌いなんです。
おかげで会社勤めが難しい。会社のリソースにはなりたくないんです。
自分の財産である身体は、自分の望むように使いたい。望むような形で人の役に立ちたい。そんな思いで今生きているのでした。

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