うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

人権を認めない人は少なくない。だから言論する。

鷲田清一の『所有論』を読んで考えたことについて、今回は、所有権は相手次第ということについて思いをつづります。

西欧の所有に対する考え方、とりわけ「所有する権利(所有権)」は、わずかな自分の持ち分を絶対領主からせめて奪われないようにと必死に戦うための武器として鍛えられてきたようです。
持ち分とは、衣食住や、健康、命です。領主は領民を所有していたので領民を思うがままに扱っていいと思っていたので、その傍若無人な振る舞いから自分を護るために所有権をひらめいたようなのです。
私には、この家を、この農作物を、この家畜を、私の家族を、私の身体を所有する権利があるんだ! だから、お前には渡さない!
という感じで。
つまり、所有権は弱者が身を守るための武器として開発され活用されてきたようなのです。
例えば、弱者が(まだ手元にあれば)自分の人権を守り、(奪われていれば)返還してもらおうと戦います。「私には人権があるんだから!」と所有権を主張して。まさに所有権を武器として。

 

ところが、この武器には致命的な弱点があります。それは効果を発揮するのは相手次第だということです。
相手から「お前には人権なんてねぇー。(オレにはあるけど)」と言われたら武力効果ゼロ。相手(強者)が弱者の所有権を認めない限り力は発揮できないのです。
とりわけ、暴力の前には無力です。
このこと、虐待児童だった私は痛いほど知っています。
親は私に人権の所有を認めませんでした。

 

さて、
私はながいことひきこもり当事者運動に関わっていましたが、そこでは自分たちの人権擁護の訴えが強くありました。
働かざる者食うべからずの考えで、働いていないひきこもりやあるいは学校に行ってないひきこもり・不登校者には人権(の所有)は認められない(少なくとも軽んじられる)風潮があったからです。
どうやら世間には「人権とはいっちょ前の人間だけが所有できる特権だ」みたいな常識、コモンセンスがあるようです。

つまり、現在のところ所有権は相手や社会から認められるときに限り(この場合は「いっちょ前」と認められたときに限り)発揮できるようなのです。
「所有権」というのが、ここまで他者依存の強い概念だとは本書を読むまで知りませんでした。ビックリです!

弱者の心の叫びが世間に届きづらいカラクリが少し分かった感じです。

 

じゃどうやって弱者は「(人権の)所有権」を獲得すればいいのでしょう?
私はまだ答えを持っていません。
とはいえ希望は持っています。「障害の社会モデル」をはじめとする多くの人権意識の啓発です。
暴力に対抗する弱者の武器は言論なのです。