うちだのつづり

暮らしの中で気づいたことをちょこちょこつづっていくブログです。

久しぶりのミーティングはとても心地よかった話

 少し前、大阪ダルクアソシエーションのアディクションカフェにオンラインで参加しました。
 かつて私は家族会には属していましたが、依存症本人グループには初参加だったんで、だいぶ緊張していましたが、謙虚に率直誠実の原則を守って参加したら、全然問題なく、むしろとても懐かしい友愛たっぷりの雰囲気に浸れて、しかも気づきいっぱいでとっても素晴らしい時間を過ごせたのでした。
 関係皆さんに感謝感激雨あられです。
 
 さて、内容について少しばかり。
 会のテーマはアイデンティティーでした。
 アイデンティティーとは、自分らしさを表現する「ことば」なのですが、これに苦労しているというか、苦痛を感じている人が世の中にはたくさんいるんですね。
 
 プラスの言葉なら自信とか自慢とかにつながるでしょうが、マイナスのニュアンスを持つ言葉だと、自分を誇るのは難しくなります。
 とりわけ、自己を紹介する際に。
例えば、
アルコールと薬物中毒の何某です。
窃盗罪の誰某です。
ひきこもりの○○です。
生活保護のの□□です。
みたく。
 
 「私」を紹介するこれらの「ことば」たちは、「私」以外の人たち(医師、司法、行政など)が私たちを呼び習わすために、私たちの知らないところで勝手に私たちにつけたものです。
 その名づけの過程に私たちは参加していません。だから私たちをそう呼ぶことに私たちは未承諾なのです。
 にもかかわらず私たちは、それをあたかも自分を特定し自分自身をよく説明する「名前」のように使用しています。
 
 このことについて、
相手のレッテル貼りに飲み込まれないように! と演者は強く訴えました。
 まったく同意します。
私たちはそんな一言で丸め込まれるような存在ではありません!
 
 私たちの呼び名であるそれらの「ことば」はまちがいなく私たちの一面を表してはいます。でも、私たちはその一面だけで成り立っているわけではありません。私たちは
もっと多面的です。
 
 逆説的かもしれませんが、私たちを表す「ことば」は無数にあります。
そのことに意識を向ける必要があります。
 
 そのことは、
私たちは、私たちを表す「ことば」の数だけ、呼び名の数だけアイデンティティーを持っているということです。
 それほどに私たちは豊かな存在なのです。
 
自分を表す「ことば」を数えてみるのは刺激的です。
 その数の多さに自分の豊かさを気づくでしょう。